レモンスライムのきもち

心を言葉に正しく変換する能力がほしいですね。

リハビリカラオケ

私は12月の中旬に風邪などの影響により、声が出なくなりました。数日で回復して日常では困らなくなりましたが、裏声に声が乗らなくなってしまいました。そうなると、カラオケに行くことができません。

 

補足しますと、私はカラオケでは原キー厨に分類されます。

「カラオケたるもの、原曲と同じキーで歌うべし」

というわけです。オク下(1オクターブ下)なんぞもってのほかです。

 

若かりし頃は、X-JAPANの歌を歌いたくて仕方ありませんでした。しかし、キーが高くて全然届きません。それどころか、当時流行っていたGLAYだのラルクだののキーすら自分にとって高すぎであり、FREEZE MY LOVESTAY AWAYあたりしか満足に歌えない人間が出来上がっていました。これは何とかせねばいかんと思いました。

 

当初はミックスボイス取得の努力をしたものの、感覚が全然わかりません。そこで次の手段として、「裏声に声を載せる能力を高める」という手段を試みました。

女性曲を裏声原キーで歌いまくることで、息漏れを抑えた裏声とでも言うのでしょうか、声量がある裏声を出せるよう努力しました。これについてはある程度上手くいったため、私は今も引き続き女性曲をよく歌います。

 

ということで、裏声が出ないと私はカラオケに行けないわけなのです。

しかし、地声は回復しても裏声は全然よくなりませんでした。

 

ちなみに年始に病院に行き、どんな状況ですかと聞かれた際には

「咳がしばしば出ます。あと、裏声に声が載らないのでなんとかしたいです」

と、裏声を回復させたいことを強調したところ、お医者さんに

「音楽などをやってらっしゃる・・・?」

と言われ、

「いや、そういうわけではないです」

などと答える謎人間になっていました。

 

今も相変わらず裏声の出が悪いのですが、このまま声を出さないとさらに衰えてしまうと思ったのと、単にカラオケに行きたすぎたことから、今日カラオケにGoしました。

やはり声の出は悪かったですが、思ったよりは出ていたのでよかったです。今度オススメの歌の記事を書いてみます。

 

カラオケはよいですよね。歌詞に感情を込めるとか、PVの真似をするとか楽しみ方はあまたありますが、私は自分の出したい声を出せている時が一番気持ちいいです。

 

レモンスライム

私がレモンスライムというニックネームを使っている理由は、気になっている人がレモンスライムを好きだからです。以下、気になっている人をミレーユさんとでも呼ぶことにします。

 

お互いドラゴンクエストが好きだったので、年始に一緒にドラクエグッズキャラバンに行ってドラクエグッズを諸々買いました。その時に全6種類の立体シリコンモンスターキーホルダーが売っていて、うち1種類がレモンスライムでした。しかし、キーホルダーは箱に入っていて何が当たるかわからない系です。

ミレーユさんは1個買い、私は2個買いました。合計3個買えば42%くらいの確率でレモンスライムを引き当てられます。心もとない確率ですが、こういうのってたくさん買っても当たらない時は当たらないので、たくさん買うよりもビビっときたものを買う作戦でした。

 

買い物後、ご飯を食べるタイミングで中身の確認をしました。

ミレーユさんはただのスライムを当て、私の1個目もただのスライムでした。お揃いはよいけどそうじゃないんだよなあと思いながら、2個目も開けたところ、見事に黄色いやつがいました。

 

「レモンスライム当たったよー」

って見せて、プレゼントしたらとても喜んでもらえました。

 

私は当てたスライムをウエストポーチにつけました。

ミレーユさんはレモンスライムを携帯につけていました。

レモンスライムを眺める様子が本当に嬉しそうに見えて、あげてよかったなとこちらも嬉しくなりました。

 

 

 

話は変わりますが、以前職場の同僚と、

「家族を頼れない病んだ人って、運よくよい彼氏(彼女)と付き合うしかないよね」

みたいな会話をしたことがあります。

病んでしまった時点で、その人にはもはや周囲にいる友人の声が届かない状態になっており、そんな人に声を届かせられるのは恋人しかないという意味です。

 

もちろん、自分で本を読みまくって心の動きを理解するなど、他にも病みから抜け出す方法はあるでしょう。

私も若かりし頃に古本屋さんで目にして「なぜかたまたま」買った心理学の本のおかげで、自分の病んだ心を矯正することができました。心を真っ直ぐにするためにかなり頑張ったと自負しておりますが、「たまたま」本に巡り合わなければ助かっていなかった可能性はあると思います。

 

ちなみに、その本は加藤諦三さんの本です。

「あなたは頑張りすぎたのよ」

などといった言葉を欲しがるうつ病患者にとっては猛毒に感じられる種の本で、実際私も「うぎゃー」とへこみながら一生懸命読んで考えていました。似非の気遣いはいらない!病みから抜け出したい!という気持ちが大きかったので頑張れました。厳しくも大変ありがたい言葉の数々でした。

 

 

閑話休題

病みや地獄から抜け出せるか否かは、本人の素養とともに運も必要だと思います。外部からの刺激で運よく助かるには「よい彼氏(彼女)」が最もよいと私は思います。

私がよい彼氏かどうかは相性次第で如何様にもなることですが、とりあえず自分の経験則から心の整え方は知っています。換言すると「地獄にいる人が助かる方法」です。そして、以前の記事で書いたように、ミレーユさんは今地獄に住んでいます。

 

私は、助けたい一心という聖人君子な心を持っているわけもなく、ミレーユさんが可愛いから好きだとか、これからも一緒に遊びたいという気持ちも持っていました。付き合うことになれば、打算的な表現を使うとWIN-WINだと感じていました。

 

だから、以前の記事に書いた通りやんわりと告白して、やんわりと振られました。そのため、今は地蔵ムーブ(=動けない)です。

 

この書き方だと、打算的な気持ちが振られた原因のように見えてしまいますね。

おそらくそうではないのですが、文では「打算」や「自分ならできるという自惚れ」が失敗につながった小さくない要素のように読めると感じます。表現って難しいですね。

 

 

「恋焦がれている」わけではない「気になっている人」だから、さほど苦もなく地蔵ムーブができてしまいます。ミレーユさんには助かってほしいけど、最低限自分のできることはやったしなあという気持ちもあります。

 

自分のあずかり知らぬところでは、究極的には運があるかないかという話になってしまうんですけど、やっぱり運があったという結末を望みたくなるものです。

「レモンスライムのキーホルダーがミレーユさんを守ってくれるといいな」

なんて考えてしまいます。

歌が運ぶもの

みなさんは、何をしている時に幸せを感じますか?

私が1つ挙げるなら、歌を聴いたり歌ったりする時です。

 

大学時代はカラオケが大好きで、ヒトカラ一人カラオケ)に行くようになってからはフリータイムで7時間とかざらに歌っていました。今は4時間くらいで満足しますし、当時に感じていた楽しさの80%くらいになっている気はしますが、それでもやはり楽しいです。

 

「歌のよさは?」と問われると、曲のよさや歌詞のよさ、あるいは歌手の声質や表現力のよさなどが真っ先に思い浮かぶものです。もちろんそれらも素晴らしいのですが、私は、歌が人それぞれの思いや情景などを乗せてくれる点が大好きです。

 

例えば、私は社会人になった後のある夏に、友人と市民プールで泳ぎまくろう計画を立てて実行しました。いつもカラオケやらご飯やらといった感じに選択がマンネリ化していたので、それを打破するためです。

で、久々に泳ぎまくって疲れ切り、車で帰ることとしました。その時に車で流したCDがB’zの曲で、B’zのパワフルさに余計疲れたという思い出があります。こういう時は倉木麻衣とかでよいよねと友人と話していました。

だから私が聴くB’zの曲には市民プールの思い出がついてきます。

 

同様に、dreamの初期の曲には夏の暑さや北海道の牧場の記憶が乗っており、愛内里菜の曲には逆に春前の寒さが乗っています。いきものがかりの曲には、結婚したかった彼女の思い出が乗っています。

 

単純な歌のよさとは別に、その歌を好んで聴いていた当時の自分を呼び起こさせてくれるところが、歌の最も素敵なところだと思います。

 

カラオケでは、歌うだけでも未だに楽しいと感じますし、「そういう気分」になったら「そういう歌」を歌うのも楽しいです。忘れたくない思い出も忘れたい感情も運んでもらえます。

 

忘れたい感情が運ばれるのは困る面がありますけど、忘れたい感情はたとえ思い出しても当時の痛みを再体験するには到底至らないので、私にとっては忘れたいと言いながらも忘れたくない感情です。どうせそこまで痛まないなら、むしろ一生覚えておきたい感情ですね。

 

みなさんも、たまには「そういう歌」を歌ったり聴いたりしてはいかがですか?

私は、未来に向かって邁進するにしても、自分の足跡は常に消えないように残しておきたいなって思います。

動物を可愛がっていますか?

以前書いた通り、私は結婚したかった彼女と約1年半付き合って別れた後、別れた苦しさもあって3か月くらいで新しい彼女を作りました。その新しい彼女は動物好きだったので、「動物好きな彼女」と呼ぶことにします。

 

動物好きな彼女とは3年近く付き合いました。結婚したかった彼女との未来は消えたので、動物好きな彼女と結婚するんだろうなと思っていましたが、最終的には別れることになってしまいました。その別れもけっこうダメージがあり、それ以来は結婚を期待しない自分になった気がします。

 

動物好きな彼女と付き合った理由は自分勝手なものでしたが、付き合っていた時はやはり楽しかったし、様々なよい影響を受けました。その最たるものはやはり、「動物好きな気持ちが強まった」ことです。

 

 

私はもともと動物好きで、家では金魚、鳥、リス、犬などのペットを飼った経験がありましたし、動物園に1日いられる人です。かなり動物好きな方だよなあと自分自身も感じていました。ですが、その慢心は動物好きの彼女によって砕かれました。砕いてもらえました。

 

動物好きな彼女なので当然、デートでは一緒に動物園に行くことがありました。

動物園ではふれあいコーナー的なものがあったりするので、そこに行ってヤギやら羊やらを愛でたりします。私は動物と触れ合うことも好きなので、ヤギや羊をなでなでして可愛がりました。

ところが、動物好きの彼女はヤギや羊をガリガリと可愛がりました。私はなでなでするのに、彼女はガリガリします。

後で知ったのは、4つ足のでかい動物たちは人間のように手が使えずかゆいところに足が届かないため、何かにこすりつけたりしてかゆみを解消しているということでした。彼女は、動物たちが自分でかくのに難儀する耳の後ろとかをガリガリしていたのです。動物たちはとても嬉しそうでした。

 

私は、自分が可愛がりたいように可愛がっているだけで「自分は動物好きだ」と自惚れていましたが、本当に動物が好きな人は動物が嬉しがるように可愛がるんだなということを理解し、その後は自分もガリガリ可愛がるようになりました。

 

このことって、人間相手にも通じることだと感じます。たとえどんなにわかりやすい説明でも、またはどんなに素晴らしい話をしても、相手に届くかどうかは別問題です。相手が受け取れる表現で、受け取れそうな分量で伝えることが肝要です。

この視点がないと、わかってもらえないのを相手のせいにするマインドを持ってしまう可能性が高まるので注意が必要です。

 

「動物を可愛がっていますか?」

という問いに対し、「可愛がっています!」と自信満々に言っちゃう自分ではなく、「(動物に聞けないからわからないけど)たぶん、可愛がっています」くらいの自信が持てる自分でありたいものですね。

感情は時とともに

私はしばしば日記を書いています。毎日ではなく、書きたいことがある時だけ書いています。

 

過去の写真は、見るだけで当時のことを心に呼び覚ましてくれます。こんなことがあったなあという記憶や、あの頃は楽しかったなあという感情がよみがえります。しかし、当時感じていた楽しさがよみがえることはありません。本当に楽しかったということは覚えていても、心すべてで味わっていた楽しさを再度実感はできません。

 

ご馳走と似ていますね。

私は佐賀牛や神戸牛の焼肉を食べた時、なんて美味しいんだと感動しました。今もその感動は覚えていますが、その感動を再度呼び起こすことはできません。近い感情を味わうには、当時一緒に食べた人と再度食べて「そう!これこれ!」と思うしかありません。

 

私は、「どこで誰と何をしたか」よりも「その時どう感じたか」が人生において重要だと感じています。なぜなら、感じ方こそがその人の心の表れですし、また感じ方ひとつで人生は楽しくも辛くもなるからです。

だから、その時味わった感情を可能な限りそのままに記録したいなって考え、日記を書いています。日記を読み返しても感情の再体験はできませんが、当時の感情は写真を見るよりもずっとよく理解できます。

 

このブログを始めた時期は、ずっと心に眠らせていた「結婚したかった彼女」のことを思い出したタイミングだったので、当時の日記を読み返して、ああ自分すごい辛かったんだなって思い出しました。リアル感情としてはよみがえりませんが、すごい辛い思いをしていた自分の様子は思い出しました。

 

ところが、色々思い出して、

「ずっと連絡が取れないけど元気なんだろうか、死んじゃったりしていないだろうか?」

と心配になった時に、不意に当時の辛さがリアル感情としてよみがえりました。フラッシュバックと分類されるんですかね。心配だとか、やっぱりあの時別れを食い止めたかったとかを考えているうちに、ふと

「あっ、今感じてる胸の痛みは当時のものと匹敵してる」

と感じました。

 

その感情を言葉で表すと、悲しさ・怒り・悔しさ・後悔などで心が痛んでゲロを吐きそうになるとでも表現しましょうか。怒りの分量は他に比べればわずかですが、それらが絶妙なハーモニーで心をぐちゃぐちゃにしてきます。「心という粘土」を多方向から色々押しつぶしたり、ぐちゃって握ったりしてくるイメージです。

 

感情は時とともに風化するので忘れていましたが、当時の私は確かにこんな感情を毎日味わっていました。

「よくこんな中頑張って生きていたわ」と思うくらい、不快な感情でした。

 

もし写真だけしか残っていなかったら、きっとこの感情をよみがえらせることはなかったでしょう。全然嬉しくない感情ですが、よみがえったこと自体は嬉しいです。当時の辛さをほぼそのまま思い出せたことで、今のありがたさが身に沁みます。日記を書いていてよかったなって思います。

未知の不安な世界よりも、住み慣れた地獄

私には今、気になっている人がいます。なぜ気になるかを簡単に言ってしまえば好きだからなのですが、「好きな人」というよりは「気になっている人」の方が正確です。

 

その人には先月やんわりと告白して、やんわりと振られました。告白して振られるのなんて10年以上ぶりなので、ショックが新鮮でした。このように感情を観察する余裕があるあたりが、好きよりも気になっているという表現が正確である理由です。本当に焦がれるほど好きなら、余裕がなくなると思うので。

 

その人が気になっている最大の要因は、その人が不幸に引き寄せられそうだからです。可愛らしくてあまりに世間を知らないため、悪意の人間に出会えば喰い物にされてしまいそうな人です。助けてあげたいという気持ちが最も大きいです。

 

そういう人を囲いにいく自分も、ある意味では悪意の人間と同じ穴のムジナです。ただ、知り合いが不幸になりそうなのに静観しているのはあまりに寝覚めが悪く、また特に恋焦がれる人もいなかったことから、昨年末あたりからはたまに遊んだりしながら「こっちにおいでよ」って言ってました。

 

 

人は、未知の不安を感じるくらいなら慣れた不幸を選んでしまう傾向にあります。

 

 

例えば、地獄に住んでいる人がいるとしましょう。地獄という表現でわけがわからなくなりそうならば「不幸な環境」とでも置き換えてください。

 

まず、地獄に住んでいることすら認識できない人がおり、そんな人は当然地獄に住み続けます。そんな人は地獄を天国だと誤解していたりするため、

「私は何不自由のない生活だ」

などと意識では思うくせに、毎日はちっとも楽しくありません。地獄にいるのですから当然ですね。

 

次に、地獄に住んでいることを認識できた人がいたとします。その人は、常識的に考えれば地獄から抜け出そうとしますよね?でも、人間はそれができないものなのです。地獄から抜け出したその先に対する不安を感じるくらいなら、住み慣れた地獄の苦しさを選んでしまいがちなのです。

 

よって、地獄にいる人を助けるには、

①その人自身が「地獄に住んでいる」と認識すること

②慣れた不幸にしがみつかず、勇気を出して未知の場所に飛び込む心を持つこと

が必要になります。

 

私が気になっている人も地獄に住んでおり、まだ①が認識できていません。私は、心の動き方や気持ちを言語化する能力はかなり高い方だと思います。が、本人が助けを求めていなければ、いくら物事を上手に伝えられても響く可能性が低くなります。

 

気になっている人は現状、心の底では助けを求めていそうなんですけど意識では助けを求めておりません。だから大してできることもありません。致命的なことが起きて地獄から抜け出せなくなる前に、声が届いてほしいです。

 

 

ここまで記したことについて、全部私の思い込みだったら私はあまりにヤバい奴だなあと思います。幸せに暮らしている人を不幸だと思い込んでおせっかいをしているとしたら、それはストーカー的な思考回路です。

本当に地獄にいるのは、私と彼女、どちらでしょうかねえ。

 

前回の記事の通り、私はこの世界線に来た時点で世の中は(結婚した世界線との相対的な比較で)地獄気味なんですけど、たぶんよい場所にいます。私より地獄に近い人はごまんといます。

 

いつか彼女をこの場所まで連れてこられると、この世界線に来た意味があったと思えるのでありがたいですね。自分の心の底の声を彼女が頑張って拾ってくれるといいなって思います。

大切な人が息づく自分

生きていく中で、自分のマインドに大きな影響を受けることってありますよね。

それは先生だったり友人だったり、家族だったり恋人だったり。あるいは本やアニメ、音楽だったり。みなさんは、どんなものによって人生が変わったと思いますか?

 

私が今の自分になれた最も大きな要因は「本」です。

次いで、「恋人」「友人」となります。

 

ただ、「本」による影響は即効性があるものではなく、本の教えを自分に落とし込む努力をすることにより、長年かけて自分を変えてきた印象が強いです。一方で、それほど長くない期間でズドンと変えてくれたのは「恋人」でした。今日はそんな「恋人」について、思うままに書こうと思います。

 

 

 

私には結婚したいと考えていた彼女がいました。今も独身ということは上手くいかなかったということなんですが、本当に大好きな彼女でした。その彼女のよさを語る大会があれば、今でも優勝が狙えます。

 

彼女の一番素敵なところは、素直さでした。人の教えやアドバイスを本当によく聞き、よく笑ってよく泣く子でした。

一方私は自分頼りで批判的視点の持ち主で、アドバイスを受けてもそれが正しいかをまずは疑ってから立場を決める人間です。そんな自分に疑問を抱きませんでしたし、何でも信じてしまう人間よりも上等だと考えていました。

 

彼女の素直さを近くで見ているうちに、「いいなあ」と思うようになりました。基本的に肯定的な反応をする彼女は、一緒にお話ししていて楽しいしよい気持ちになれるから、自分を大きく見せようと気張る必要もありません。彼女の素直さが私の素直さを引き出してくれていました。

 

 

今の私は「穏やか」だとか「誠実」だと評価されることが多いです。

こんな自分になれたのは彼女のおかげです。今でも物事を疑って真贋を探るという姿勢自体は変わりませんが、その疑いの気持ちを心の中で小さく抑えられるようになりました。それは、疑いの気持ち自体が小さくなったのではなく、それまで乏しかった「物事を受け入れる気持ち」が大きくなったのだと思います。カウンター的な性質はそのままでも、物事を受け入れようとする姿勢が強くなったことで目立たなくなりました。人にもより優しくなりました。

 

 

彼女とは連絡が取れなくなって7年くらい経ちます。元気に過ごしているかすらわかりません。元気に幸せに過ごしていてほしいなと願っています。

 

巡り合わせや行動次第では、彼女と別れずに結婚できた世界線もあった気がします。その点は後悔してもしきれないし、結婚できた世界線と比べると今の私が生きてるこの現実は圧倒的に負けています。彼女ほど恋焦がれて愛する人はこの先現れないと感じているので、この現実には一種の諦観が付きまとっています。

 

 

愛とか友情は比較するものではないですよね。人それぞれによい部分があり、それは比べられる性質のものではありません。それはわかっています。

 

私は子どもの頃、友達について、誰が1番で誰が2番で・・・という序列を作っていました。成人してからはそのような視点がかなり薄まりましたが、

「友人の中で誰が一番の親友か、序列を作れ」

と言われれば、できてしまいます。どの友人も大切ですけど、自分にとって「トータルで」1番なのは誰か決めろと言われれば決められます。序列を作ることに益がないからしないだけで、やろうとすればできます。

 

恋人も同じです。結婚したかった彼女と別れてから別の彼女がいた時期もありましたし、今も気になっている人はいます。結婚したかった彼女、その後の彼女、今気になる人に対する気持ちについてはいわば「種類が違う」とでも言いましょうか。皆「好き」である(あった)ことに嘘偽りはなく、ただ「どのように好きか」という部分が違っているような感じがします。

それ故、普通に生きている時はそれらを比較しようなんて考えません。考えませんけど、序列をつけろと言われればやはりできてしまいます。結婚したかった彼女への愛が最も幸せで温かいものでした。その幸せや温かさは、別の種類の愛で到達するのは不可能だと感じてしまいます。

 

「『できない』と思いこんだら、できるものもできなくなる」

のが真理なので、今後の愛でも届くかもなあという気持ちは消さずに灯してはいるんですけど、期待はしていない自分がいます。

 

 

そんな風に私は、この世界線にいる自分にちょっとした失望と諦めを持っています。だからといって人生を投げやりにはしませんし、人生を楽しいつまらないの2択で評せと言われれば間違いなく「楽しい」と答えます。

カラオケなど、楽しいことをしていれば楽しいし、ご飯も美味しく食べています。ただ1点だけ、さらに圧倒的に楽しい人生になるチャンスを掴めなかったがっかり感があるだけです。

 

でも、彼女を愛して付き合って感情を共有した時間は確かにあったから、今の自分の中には彼女が生きています。人を肯定したり人に優しくしたりする瞬間、私の心の中にある彼女の心がその選択の後押しをしてくれています。

そういう自分が今いることはとても嬉しく誇らしいです。

 

この世界線で、私もいつか、誰かの心の中に息づきたいなって思います。

この世界線にいてよかったと感じる日が来るといいなって思います。